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ナイン・イレブン

2001.09.11は忘れられない日です。

この日の朝、テレビを見ていると飛行機がNYCのワールドトレードセンターに衝突した後の画像が流れました。

すごい事故が起きたなあと思いながら大学へ向かう準備をしていました。

そして、テレビ中継を見ていると、その最中に再び飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んで行きました。

テレビ中継は更に慌ただしくなり始めました。

テレビからは「テロ」という言葉が聞こえ始めました。

ものすごく恐ろしい映像が流れ続けています。

飛行機がビルに突っ込む瞬間、ビルが崩れていく様子、ストリートを襲う煙から逃げる人々。

とんでもない光景が続きました。

そして、テレビではワシントンDC郊外にあるペンタゴンにも飛行機が突入したと報道しています。

僕は何がなんだか分からない状態でした。

テレビのローカルチャンネルはシカゴでの被害は報道されていません。

そのうち、ローカルチャンネルではダウンタウンから避難するように呼びかけられました。

それはシカゴのダウンタウン、特に、シアーズタワー(現在のウィリスタワー)や他のビルが標的にされるかもしれないからです。

先ほど見たような光景に自分が出くわすかもしれないのです。

気づけば、もう職場へ向かわなければならない時間です。

僕は8月からシカゴにあるディポール大学大学院に大学院生アシスタントアスレティックトレーナーとして入学しました。

まだ、シカゴに来て大学院生として仕事を始めてまだ数週間でした。

僕は職場に行くべきなのかどうなのか、迷いました。

職場はダウンタウンではないものの、ダウンタウンのすぐ北に位置しています。

上司であるヘッドアスレティックトレーナーやアシスタントアスレティックトレーナーに電話をするも2人とも出ません。

1つ上の大学院生の2人にも電話をしますが、こちらも出ません。

全員にメッセージを残しましたが、電話が折り返しかかってくることはありませんでした。

家を出なければならない時間が迫ってきました。

こんな状況だったら普通、出勤などしないのがほとんどのアメリカ人です。

僕は上司から休むことの了承を得られないこと、上司とこれ以上問題を起こしたくないと強く心配していました。

ディポールに来てまだ数週間でしたがすでに上司との関係がよくありませんでした。

シカゴに引っ越してから生活上の事務手続きなどがまだ落ち着いてないこと、上司がそれについて勘違いをしていたことなどがあり、よく思われていませんでした。

こんな状況でしたので、僕としては仕事に遅刻をしたり、無断で仕事を休むことをしたくなかったのです。

これ以上「問題」を起こすわけにはいかなかったのです。

迷った挙句、僕は職場に向かうことにしました。

本当は行きたくなかったけど。

僕はアパートを出て、最寄り駅に向かいました。

歩きながら仕事から与えられている携帯が鳴らないか期待していましたが、虚しくも電話は鳴らず、駅についてしまいました。

僕はシカゴ市内のノースサイドに住んでいました。

最寄りの駅からはダウンタウンへと向かう電車に乗ります。

駅のホームには誰もいません。

僕1人です。

少しして、ダウンタウンへと向かう電車が来ました。

電車には誰1人も乗ってません。

文字通り、僕だけです。

ダウンタウン方面に電車は進んで行きます。

途中の駅でも誰も乗ってきません。

窓の外を見ると、逆に向かう電車のホームには人で溢れかえっています。

人々は慌てている感じ、不安な感じに見えました。

急いで家に帰らなければという感じがありありと分かります。

1人電車に乗りながら、「一体自分は何をしているんだ」と思っていました。

でも、「行かなきゃしょうがない」とも思っていました。

駅に着き、足早に職場のあるビルに向かいます。

ビルに着き、ドアを開けようとしたらガンっといってドアが開きません。

鍵がかかっています。

IDカードで鍵を解除しようとしますがドアは開きません。

僕は周りを見渡しましたが、入り口付近には上司も同僚も他の部署の人の誰の姿もありません。

「そりゃ当たり前だよな」と分かっていながらも呟いていました。

もう一度、上司や同僚に電話をしましたが誰も返事をしません。

ここでやっと、やるべき事はやったと思えたので急いで帰宅の途についたのでした。

この日からアメリカは大きく変わりました。

全てのことに関してセキュリティーが厳しくなりました。

特に外国人、中でも中東系の人には一層厳しくなりました。

例えば、空港でのセキュリティーチェックです。

飛行機に乗る際、無作為に選ばれた人は探知機に加え、荷物のチェックとボディーチェックがされるようになりました。

このとき、僕は男子バスケ部を担当していました。

当時、ディポール大が所属していたカンファレンスUSAはアメリカ中に所属校がありました。

西はテキサス州、東はノースカロライナ州、南はフロリダ州やルイジアナ州、北はウイスコンシン州です。

遠征はミルウォーキーにあるマーケット大に行く以外は全て飛行機での移動でした。

どの空港でも毎回例外なく僕は「無作為」に選ばれました。

とても強い違和感を覚えました。

国内では特定人種へのヘイトもあったりして、ギスギス感がとても強くなっていった時期でもありました。

毎年、この時期になるとあのときの写真がメディアによく出ますが、僕はそれを見るのがとても苦しいです。

僕はNYCにいたわけではありませんがあの出来事はアメリカ中を悲しませました。

多くの人の命が意味もなく奪われ、多くの人の心に傷をおわせ、今でもPTSDに苦しむ人もいます。

もしかしたら、僕も直接巻き込まれていたかもしれません。

そして、現在もこのような出来事は世界中どこで起こってもおかしくありません。

もちろん、日本も例外ではありません。

あの日のことを忘れずに世界で人々のいさかいや抗争が無くなることを祈るばかりです。

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この記事を書いた人

パフォーマンスインテグレーション代表
全米アスレティックトレーナー協会公認、アスレティックトレーナー(ATC)

東京の市ヶ谷で怪我の予防と施術、リハビリテーション、トレーニングを行なっています。腰痛や膝の痛みのリハビリの専門家です。ブログではスポーツ障害や健康に役立つ情報を中心に発信しています。

アメリカの大学(NCAAディビジョン1)にて多競技でアスレティックトレーナー(ATC)として12年間働きました。多くの大学生やプロアスリートの怪我の予防や治療、リハビリを行なってきました。

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